【高梨の多摩雑感vol.50】多摩のバラガキ
9月も半ば。窓の風から金木犀の香りが漂う心地よい空気感。一番好きな季節がやってきたなぁと感じます。
多摩に住んでいるとついつい目で追ってしまう「新撰組」の文字。
司馬遼太郎さんの小説「燃えよ剣」の映画がいよいよ公開間近。昨年から楽しみにしていたこの作品。
暑苦しく信念のために生きた男たちの一世代の隆盛。その副長である土方歳三の目線で描かれる歴史スペクタクル大作。
土方歳三役は「永遠の0」での好演が記憶に残るV6の岡田さんということで期待が高まります。
キャッチコピーは
「時代を追うな、夢を追え」
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自分の中で新撰組といえば「近藤勇」「土方歳三」。多摩の田舎道場(天然理心流 試衛館)から始まり武士になるという志を立て、水戸の脱藩浪士「芹沢鴨」と組み京都守護職の松平家に治安部隊結成を嘆願。これが認められ「新撰組」が発足。
京都の治安組織となった新撰組は尊王攘夷派の長州藩志士、不逞浪士達を捕殺。池田屋事件、蛤御門の変を経てその地位を不動のものにしていく。
その後坂本龍馬によって薩摩藩と長州藩が同盟を組むと、形勢は逆転。幕府が一気に弱体化し、徳川第16代将軍 慶喜は大政奉還を行い政権を朝廷に返上する。
幕臣待遇となっていた新撰組もこれに動揺したが、朝廷につくこともせず最期まで「新撰組」として薩摩長州藩の勢に京都で戦うことを決意。
戊辰戦争に入ると官軍となった長州薩摩の軍勢と戦うことになるが、寝返る藩が出たりと幕府軍が劣勢となると将軍慶喜は大阪城から江戸へ逃亡。甲州勝沼の戦いで敗れた新撰組もこれを守るべく江戸へ移った。
鳥羽伏見の戦いで敗戦し、その後流山に布陣した際には切腹の覚悟をしていた近藤勇。
それでも土方歳三は最後まで生きて欲しいと願い、近藤勇に板橋総督府は出頭を訴えた。もちろん捕まったら生きて帰れる可能性はほぼない。それでも生きてほしかった。
その訴えを受け入れ近藤勇は板橋総督府へ出頭。土方歳三は投獄された近藤をなんとか助けようと試みたが結局願い叶わず、近藤勇は斬首となった。
この年に1番隊隊長沖田総司も病没し、土方歳三は旧幕府分を率いて蝦夷の地へ向かい、松前城を落城。函館政権を樹立。
蝦夷の地で不敗を誇っていた土方率いる軍勢だったが、次第に状況は新政府軍に向き、劣勢に。
その戦中に土方の小姓であった「市村達之助」に愛刀「和泉守兼定」を日野の実家へ届けるように命じます。達之助を可愛がっていたことからも生かして帰したかった土方の想いでしょうか。
その愛刀は無事に日野の生家へ届けられ、今もなお多摩日野にある土方歳三資料館にその意志を誇り続けている
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なんてちょっとした土方歳三のエピソードを書いてみました。こう並べてみると多摩の百姓だった頃から、蝦夷の地に眠るまで近藤勇と志した事を貫き通したように思います。
そんな土方歳三が残した有名な句に
「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東あずまの君やまもらむ」
という言葉があります。
たとえ自身が蝦夷の島に朽ち果ててもと、自分の魂は徳川家(日本)を守り続ける。
このような意味合いです。
最期の最期まで戦い続けられたのも常にこのような思いが心にあったからでしょう。
「多摩のバラガキ」と呼ばれていたほど、ヤンチャで不良だった土方歳三。
武士として戦いの中で命を落とすまで真っ直ぐに生き、時代を追わず最期まで自分達の夢を追い続けた土方歳三のように自分も志したことを最期まで貫いて生きたいと思う。
2021/10/15。
ぜひ「多摩のバラガキ」の一生を観に映画館へ足を運んでみてはいかがでしょうか?
そして...
多摩雑感もついに50記事目になりました!!!
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